★三國志ネタ★ ★特別武将&エディット★
  漢の三傑・韓信   (2015/1/11)


「三國志8」で、さすがに「難易度・易しい」に国士無双の韓信を参戦させちゃうのは反則的過ぎるかなぁと思って、
代わりに楽毅を参戦させたら、楽毅も十分強かったって話(※「三國志8」にて)

「韓信=呂布」並みに強いのかなぁと思ってたが、「楽毅=曹操」並みに無敵キャラでしたw

やっぱり楽毅はオールマイティーに何でも出来ちゃうタイプだからな…
韓信よりも楽毅のほうが反則的存在だろうw


 【韓信】 ※いにしえ武将

秦末から前漢初期の武将、張良・蕭何と共に漢の三傑の一人
元は項羽軍にいたが、その才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきた
最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により大将軍となった
劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた

若い頃は、貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活をしていた
とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長とその妻は韓信に食事を出さなくなった
韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間、食事を恵まれると韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言った

ある日、韓信は町の少年に「お前はいつも剣を帯びているが臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」と挑発された
韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったが、
韓信は「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していた

のちに故郷に凱旋した韓信は、まず飯を恵んでくれた老女に使い切れないほどの大金を与えた
自分を侮辱した少年には「我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登ることができた」と言い、中尉(治安維持の役)の位につけた
居候させていた亭長には「世話をするなら、最後までちゃんと面倒を見よ」と戒め、百銭を与えた

秦の始皇帝の没後、陳勝・呉広の乱を機に大規模な動乱が始まると、
韓信は項羽に仕えたが、たびたび行った進言が項羽に用いられることはなかったため、
秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ、漢中に左遷された劉邦の元へと移る

しかしここでもつまらぬ役しかもらえなかったが、ある時罪を犯し、斬刑に処されそうになった。
「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似をするのだ」と訴え、
韓信を面白く思った夏侯嬰は、韓信を劉邦に推薦したが、劉邦は韓信に対してさほど興味は示さなかった

自らの才能を認めて欲しい韓信は蕭何と何度も語り合い、
蕭何は韓信を異才と認めて、劉邦に何度も推薦するが、劉邦はやはり受け付けなかった

この頃の漢軍では、辺境へ押し込まれたことと、故郷恋しさで脱走者が相次いでいた中、
韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は、劉邦に何の報告もせずにこれを追いかけ、
「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる」とまで言って説得した

劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した
劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」と問い詰めた
蕭何は「韓信は国士無双(他に比類ない人物)であり、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠である」と言った
これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにした






  曹操の先祖・曹参   (2015/1/12)


読み方は「そうさん」ではなく「そうしん」!!当初は「そうさん」だと思ってたw(おい)
もちろん「そうさん」では変換してくれないが、「そうしん」でもなかなか変換してくれないw(ほぼ「送信」になりますw)
しかし「曹さん」なら間違ってはいない気がする(蒼天関さんっぽく)

血は繋がってないけど、一応「曹操のご先祖」なんだから、いにしえ武将として参戦してもいいのにッ…!!

仕方ないからエディットで作るが、曹参を「文官」っぽくするか、「武官」っぽくするかで悩むw
顔グラをどっちにしようかな…血の繋がりはないけど、イメージはもちろん曹操様ですw
でも曹氏も夏侯氏も、もともと親戚関係らしいので、多少は血が入ってるかも?


   【曹参(そうしん)】 ※エディット

秦末から前漢初期にかけての武将、斉国の相国、のちに蕭何の推薦で前漢の二代目の相国となった
姓は「曹」、諱は「参」、字は「敬伯」、爵位は「平陽侯」、諡は「懿侯」
後漢末の丞相・曹操は、曹参を祖先とする家であるが、曹操の祖父・曹騰は宦官であったため、
曹参の同僚であった夏侯嬰の子孫・曹嵩を養子に入れて、曹の姓を名乗らせた

曹参は劉邦と同じ沛県の人で、秦の時代には沛県の刑務所の属吏で、蕭何はその時の上司にあたる
劉邦が挙兵した時、中涓(侍従)となり、反秦連合の一員となった劉邦に従い、軍を率いては各地を転戦して活躍した

漢王となった劉邦により将軍に引き立てられ、劉邦の下で楚軍を相手に転戦した
劉邦から離れて韓信の軍に従軍して魏・趙・斉を破り、劉邦と韓信の軍は、項羽を破りほぼ天下を平らげた
楚漢戦争後の戦功第一は誰かという選評で、数十箇所の傷を負いながらも前線で戦ったことから曹参を推す声も大きかったが、
結果的には後方支援で劉邦軍に絶えず兵糧・兵馬を支援し続けた蕭何が選ばれた

漢王朝を立てた高祖・劉邦は、庶長子・劉肥(悼恵王)を斉国の王とし、曹参を斉国の相国とした
当時の斉は七十余城を数える大国であり、更に最高位の臣として曹参がなったことからも、功績の多さと評価の高さと劉邦からの信頼の厚さが伺える
黄老思想の学を重んじて、斉国の丞相となって9年間で斉国は安定し、賢相として称えられた

漢の相国である蕭何と、沛県で部下であった昔はとても仲がよかったが、将軍・丞相となってからは疎遠だった
しかし蕭何が死ぬ間際に、自分の後継に推薦したのは曹参であった
蕭何の後を継いで曹参は漢の相国となったが、劉邦と蕭何が定めたあらゆる事柄を変更しなかった

それだけではなく曹参は昼も夜も豊醇な酒を飲み、政務に熱心には見えず、職務放棄していると考えて恵帝が曹参を諌めると、
曹参は「高帝(劉邦)は蕭何とともに天下を平定し、法令はすでに明白です。我々はそれを遵守すればよいのです」と言ったので恵帝は納得した
人民は「蕭何は法度を作り、明白でよく整っている。曹参が彼に代わり、遵守して改変しない。その清浄な政治に、民は安らかで一つ」と歌った






  夏侯惇の先祖・夏侯嬰   (2015/1/13)


仮にも血の繋がった「夏侯惇&夏侯淵のご先祖」なんだから、いにしえ武将として参戦してもいいのにッ…!!(二回目)
劉備の先祖(=劉邦)が参戦してるんだから、曹操や夏侯惇の先祖が参戦してもいいのに!!

でも正式に参戦したら、曹参や夏侯嬰の勢力相性は魏軍寄りになっちゃうんだろうなー
曹操や夏侯惇たちと親密関係になるので、魏軍以外からはスカウトしにくいはず…

あれ?でも劉邦が蜀軍と相性が良いし、劉備とも仲良しだから、その場合はどうなるんだろう?(劉邦軍は蜀軍寄りの相性)
曹参はともかく、劉邦大好きな夏侯嬰は劉邦とも親密が高そうだけど、子孫である夏侯惇&夏侯淵とも仲良しだろうし…
仕方ないから勢力相性は、蜀軍と魏軍のちょうど「中間」になるとか…?(ややこしい関係性)
蕭何さんも蜀軍寄りだから、蕭何配下だった曹参はどうなるんだ?(蕭何と親密関係だが、相性は魏軍寄り?)

夏侯淵は劉邦の「子分」というか「舎弟」っぽいイメージw
顔グラのイメージはもちろん「夏侯惇」と「夏侯淵」を足して二で割った感じ?
でも「魏軍カラー(青)」ではなく、一応「漢カラー(赤)」です
劉邦の子どもたちを助けるイベントは、長坂の趙雲っぽいけどw(もしくは蒼天徐庶←)
自動的に子供と動物(おもに馬)に好かれるタイプw


 【夏侯嬰(かこうえい)】 ※エディット

秦末から前漢初期にかけての劉邦軍の部将、諡は「文侯」

劉邦と同じく沛県の出身で、若くして劉邦を慕っており、県の厩舎係(馬車の御者)と書記を務めた
劉邦が挙兵し反秦連合に参加して沛公となると、その功績により太僕に任命され、後に滕公に封じられる
一介の下役人だった韓信の器量を見抜き、国士として推挙した

彭城の戦いで敗北した際に、追っ手に追いつかれると恐怖した劉邦は自分の息子(のちの恵帝)と娘を馬車から突き落した
だが夏侯嬰は二人を拾い上げたので、劉邦は怒って夏侯嬰を斬ろうとしたが、結局一行は揃って味方陣営へ逃げ帰ることができた
これにより劉一門からの信任が篤くなり、その功績で昭平侯に封じられた

高祖(劉邦)が項羽の西楚を滅ぼして天下統一を成すと、それまでの功績で汝陰侯に累進した
晩年は、呂氏が滅びると少帝弘らを自ら宮中より追い出し、陳平、周勃、灌嬰らと共に高祖の第4子で20余歳の代王・劉恒(太宗・文帝)を擁立した

後漢末期、曹操と共に挙兵した夏侯惇・夏侯淵らは夏侯嬰の末裔という
また曹操の父・曹嵩はもともと夏侯氏で、曹参の末裔である曹騰の養子になり、曹の姓を名乗ることになったとの説がある