★三國志ネタ★
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  漢の高祖・劉邦   (2015/1/8)


光武帝のように武勇も知略も人格もパーフェクトな人間よりは、なにかしら弱点があったほうが愛される

――とは言ったものの、劉邦さんのように弱点だらけなのもどうかと思う(禁句)

「いにしえ武将」の劉邦さんは、子孫である劉備よりも能力値が低いw
でも唯一、「魅力」だけが劉備さんよりも「+1」という残念なステータス(魅力だけで乱世を生き抜いた男)
まぁ、劉備さんと親愛関係にあるのでスカウトしやすいし、魅力値が高いので民と仲良くしたり、人材のスカウトには重宝します(天下無双のスカウトマン)

あと同じ「いにしえ武将」の蕭何さんや張良をスカウトするのに重宝しますw(親愛関係)
つーか確実に蕭何さんや張良がいなかったら天下は取れてなかったと思う(禁句)

劉備さんと同じように劉邦さんも他力本願上等な感じだが、劉邦さんの場合は洒落にならないレベルで猜疑心が強い
基本的に他力本願なのに、人を疑うって一体何なんだw人を見る目はあるはずなのに疑いすぎw

でも「自分に自信がない人」のほうが「自分は裏切られるんじゃないか」という猜疑心が強いって言うし…
「草原の風」で光武帝にまで「高祖(劉邦)は猜疑心が強い」とかツッコまれてたしw
そりゃあ光武帝みたいに一人で何でも出来ちゃう人は自信満々だし、もし裏切られても何とかなるだろうけど、
劉邦さんは「魅力」だけだからな…あっさり裏切られる可能性が無いことも無いw


 【劉邦 (高祖)】 ※いにしえ武将

前漢の初代皇帝、正式には廟号が「太祖」、諡号が「高皇帝」であるが、通常は「高祖」と呼ばれることが多い
沛県の亭長であったが、反秦連合に参加した後に秦の都を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた
その後、項羽によって西方の漢中へ左遷され「漢王」となり、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した

沛県郡で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した(字の「季」は「末っ子」のこと)
長兄に劉伯、次兄に劉喜、異母弟に劉交がいる
劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという
また太股に72の黒子があった、72とは当時ではかなりの吉数である

反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた
亭長(警察分署長)に就任したが、任務に忠実な官人ではなかった
何故か人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり、店が満席になったと伝えられる
沛の役人の中に、後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいた

あるとき、名士である呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た
名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った
呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘(呂雉)を娶わせた

陳勝・呉広の乱が発生し、秦への反乱軍の勢力が強大になると、蕭何の策により劉邦が沛の県令となった(以後、劉邦は「沛公」と呼ばれるようになる)
反乱軍として劉邦が集めた兵力は2、3千で、配下には蕭何・曹参の他に、犬肉業者をやっていた義弟の樊カイ、
劉邦の幼馴染で同日に生まれた盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた






  漢の三傑・蕭何   (2015/1/9)


蕭何さんは劉邦の「女房役」というか「保護者」というか、劉邦軍の「大黒柱」というか、
この人がいなかったら天下取れて無かったよね?とか、むしろ蕭何さんのほうが劉邦よりも魅力値が高いのでは?と思われるw

張良や韓信よりも、劉邦さんとの付き合いが長いので「熟年夫婦」っぽいイメージがあるw
劉邦と同日に生まれて兄弟同然の盧綰とは、ちょっと違うタイプの「劉邦の理解者」というか…
劉邦のダメなところも含めて支えてくれてる感じ?なんか「ダメな夫を支える、よく出来た世話女房」っぽいw
おかげで劉邦が蕭何さんに依存しちゃって、ちょっと家出なんてしようものなら劉邦さんが大慌てw
浮気(裏切り)を疑われても、うまいことやり過ごす世渡り上手ですw

劉邦の近くに蕭何さんがいたから、みんなが安心して付いてきたけど、
もし劉邦一人だったら、即行でみんなから見捨てられてる気がするwww(禁句)

蕭何さんがいるだけで安心感半端ない…!!!!!
どんなにダメの子(劉邦)も見捨てないし、家出した子(韓信)もちゃんと連れて帰るし!!
「上司にしたい」&「部下にしたい」堂々1位!!人間関係を円満にしつつ、内政をやらせたら天下無双!!
劉邦軍の中では蕭何さんが一番好きですv

でも蕭何さんが好きなのに、よりにもよって「三國志8」では「いにしえ武将」として参戦してないというコーエーの罠!!!!

劉邦はもちろん、張良・韓信の二傑はすでに「三國志8」でも登場してるのに、なぜ蕭何さんだけ参戦が遅れたのか!!(小一時間問い詰めたい)
内政・輸送が大事な「三國志8」こそ、蕭何さんの活躍の場なのに!!(残念)
仕方ないから「三國志8」は蕭何さんだけはエディットで参戦させるわ!!(泣)


 【蕭何】 ※いにしえ武将

秦末から前漢初期にかけての政治家、劉邦の天下統一を輔けた「漢の三傑」の一人

劉邦と同じ沛県出身で、若い頃は下役人であったが、その仕事ぶりは真面目で能率がよく、評価されていた
秦末の動乱期になると、部下の曹参とともに秦政府から派遣されていた沛の県令を殺害して、後釜に劉邦を迎えた

劉邦が秦の都を占領した際、他の者が宝物殿などに殺到する中、蕭何はただ一人、
秦の歴史書や法律、人口記録などが保管されている文書殿に走り、項羽軍による破壊の前に全て持ち帰り、漢王朝の基礎作りに役立てた

劉邦陣営における内部事務の一切を取り仕切り、やがて劉邦が反秦陣営に加わり各地を転戦するようになると、
その行政手腕は遺憾なく発揮され、戦地に向けて食糧と兵士を送り、それを途絶えさせることなく劉邦を後方から支え、
兵士に略奪に走るような真似をさせることもなく、民衆を苦しめることもなかった

秦が滅亡し、劉邦が漢王になると、蕭何は丞相に任命され、内政の一切を担当した
楚漢戦争が劉邦陣営の勝利に終わると、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて、後方支援を続けた蕭何が戦功第一に選ばれた
蕭何の送り続けた兵糧と兵士が無ければ、最終的に勝利することができなかったことを、劉邦も理解していたのである

劉邦が皇帝となり、前漢が成立すると、蕭何は引き続き丞相として政務を担当したが、
韓信が謀反を企てていることを知ると、策謀を用いて誘い出し、これを討った
この功績により、臣下としては最高位の「相国」に任命され、様々な特権を与えられた

しかし劉邦は皇帝となってからは猜疑心が強くなり、韓信を始めとして相次いで反乱が起きたことで、蕭何に対しても疑いの目を向けたのである
長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になれば簡単に関中を掌握できることも、危険視される要因になった
蕭何は部下の助言を容れて、わざと悪政を行って(田畑を買い漁り、汚く金儲けをした)自らの評判を落としたり、
財産を国庫に寄付することで、一時期投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した






  漢の三傑・張良   (2015/1/10)


「三國志8」で張良も登場させてみたが、諸葛亮も顔負けの「落雷」持ちでしたw(「8」の場合はエディットで、いにしえ武将の名前を入力すると登場します)
実戦経験は無いけど、さすが伝説の天才軍師…!!落雷の威力が半端ない…!!

でも結局「落雷」の威力が強すぎて途中から封印したため、
張良には戦よりも、事前工作(城壁の破壊や埋伏)や外交や内政で頑張ってもらいましたw

せっかく敵が大軍で攻めてきたのに、容赦なく落雷ドーンはなんか可哀相だし…
自分が落雷をやられたらマジギレするレベルだからな…(自分がやられて嫌なことはやらない)
「8」で張良ではなく孫ピンが「落雷」を使った時に、見事に孫ピン自身にも落雷が落ちて、しばらく重傷だったが(※落雷が誰に落ちるかはランダム)
あれは自業自得というか、きっと天の怒りだと思うw人間が自然現象を制御しようなんて到底無理だったよ!

ちなみに「いにしえ武将」たちは、三国武将たちとは違う時代の人々ですが、
だいたい最初のステージ(桃園の誓い)で、30歳くらいの設定で登場します(劉邦は劉備よりも年上)

つまり張良もこの顔グラで三十路…!!(衝撃)
なんという不老不死!!秦の始皇帝よりも不老不死に成功してるよ!!
でも「三國志」の張良の場合は「美女顔のイケメン」というか「ショタ担当」だと思ってる!!(何)

宮城谷小説で張良がチラッと登場した時に、「顔はキレイだけど、中身はけっこうキレやすい剛毅な男」というキャラ設定だったため、
「血の気の多いイケメンのヤンキー」みたいなイメージもありますwww


 【張良】 ※いにしえ武将

劉邦軍の軍師、字は「子房」、諡は「文成」、劉邦の天下統一を輔けた「漢の三傑」の一人
劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた

その祖先は韓の公族であったが、秦が韓を滅ぼしたため、祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とした
張良は始皇帝の巡幸の途中を狙い、暗殺しようとしたが、失敗に終わる
始皇帝は自らを暗殺しようとした者に怒り、全国に触れを回して捕らえようとしたため、張良は偽名を使って隠れた

逃亡中、張良は謎の老人・黄石公から太公望の兵法書を渡され、兵法を学んだ
また逃亡生活の時に、項羽の叔父・項伯が人を殺して逃げ込んできたので匿まっている

陳勝・呉広の乱が起こると、張良も兵を集めて参加しようとしたが兵が集まらず、劉邦に合流した
張良自身も将としての資質の不足を自覚しており、さまざまな人物に自らの兵法を説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった

ところが劉邦は出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を採用し実戦で使った
張良はこれに感激して「沛公(劉邦)はまことに天授の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた
これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れた

張良の知謀により項羽を滅ぼした劉邦は、皇帝に即位し、臣下に対して恩賞を分配し始めた
張良は野戦の功績は一度もなかったが、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」と高祖に言わしめ、留に封ぜられ「留侯」となった

張良の容姿は「婦人好女の如し」と言われるが、元々病弱であったため、漢の体制が確立された後は、病気と称して家に籠るようになった
その中で導引術の研究に取り組み、穀物を絶って体を軽くし、神仙になろうとした
本気で長生術を信じていたというよりも、統一後の高祖・呂雉による粛清を避ける意味もあった

最高の知略の臣「王佐の才」という代名詞としても度々使われており、
三国時代の曹操が荀ケを「我が子房が来た」と喜んで迎えたのが有名である