★三國志ネタ★ ★特別武将&エディット★
  斉の宰相・晏子   (2013/7/10)

「子産」を読み終わったのに、宮城谷「晏子」を読もうと思ってたが、
映画(指輪物語シリーズ)を必死に見てたら全然読めてないw

本当は小説を読んでからのほうがイメージがしやすかっただろうが…まぁいいか←
小説読んだ後でイメージが変わって顔グラ変更するかもしれんが、とりあえずこれでw
晏子は身長が小さいけど、とにかく真面目で物事をハッキリ言うイメージ
つーか諸葛亮と微妙に関係があるのに、何故いにしえ武将にいないのか…



【晏子(晏嬰)】

春秋時代、斉の政治家。氏は「晏」、諱は「嬰」、字は「仲」、諡は「平」。父は「晏弱(晏桓子)」、子は「晏圉」。
斉の霊公、荘公光、景公の3代に仕えた。「晏平仲」「晏子」と尊称される。

晏嬰は小さな体に大きな勇気を備え、常に社稷(国家)を第一に考えて上を恐れず諫言を行い、人民に絶大な人気を誇り、君主も彼を憚った。
常に質素を心がけ、肉が食卓に出ることが稀だった。狐の毛皮を仕立てた一枚きりの服を、三十年も着ていたという。
晏嬰は斉の宰相として管仲と並び称され、春秋時代を見渡しても一、二を争う名宰相とされている。

楚の霊王は斉を侮り、使節として楚へ来た貧相な体躯の晏嬰を辱めんとした。
ところが晏嬰が見事に対応したため、霊王は「聖人に戯れんとして、却って自ら恥をかいたか」と苦笑いした。
横道で天下に悪名高い霊王をへこませたことで、彼の名は更に上がった。

晏嬰は折に触れ主君・景公に対して諫言を行ったが、晏嬰が危篤に陥った時、景公は海辺に遊びに行っていた。
そこに早馬が来て晏嬰が危篤と聞くと、馬車に飛び乗って都に向かった。
景公は馬車の速度が遅いと、御者から手綱を奪い取り自ら御を執った。それでも遅いので、ついには自分の足で走った。

晏嬰の邸に着くと、家に入り、遺体にすがって泣いた。
近臣が「非礼でございます」と言ったが、景公は「むかし晏嬰に従って遊んだ時、一日に三度わしを責めた。いま誰がわたしを責めようか」と言い泣き続けた。
死後は「平」を諡され「晏平仲」と呼ばれるが、後世の人々は「晏子」と尊称した。

晏嬰の逸話として、3勇士を2つの桃で自決させた話がある。
3人を罪に陥れて、刑罰に服せずに(つまり自分の手を汚さずに)自決させたこの逸話は「梁甫吟」という詩に詠われ、
その詩を三国時代の諸葛亮が好んでよく口ずさんでいた。






  斉の桓公   (2013/7/11)


管鮑の二人がいるなら「斉の桓公」も入れたいなぁとv
春秋五覇の最初の覇者だし、エディットで重耳も作ったなら、ぜひ桓公もv
「斉桓晋文」ってことは「斉の桓公×晋の文公」ってことですか!!?(違)

しかし重耳は「お前の肉を食うぞ」と発言してるが、桓公は実際に人肉を食べてるしな…
基本的に楽観的なので、国のことは管鮑の二人に任せておけば大丈夫★と思ってるw(他力本願)
ホントに管鮑の二人がいなかったら、ただのダメ人間だな…(禁句)




【斉の桓公(姜小白)】

春秋時代、斉国の君主。桓公は「春秋五覇」の最初の覇者であり、晋の文公(重耳)と並んで「斉桓晋文」と称された。

小白の兄・襄公は気に入らない人間を次々と始末したため斉国内は混乱し、危険を察した小白や、兄の公子糾は他国に亡命した。
襄公はその後、従兄弟の公孫無知に暗殺され、公孫無知が斉の国政を取り仕切るが、公孫無知もすぐに暗殺された。
公孫無知亡き後は、小白と兄・公子糾との間に後継者争いが生じた。

この時、公子糾の腹心であった管仲は、小白を待ち伏せして暗殺しようとしていた。
管仲の射た矢は小白の腹に当たり、競争相手が消えた公子糾は、魯の兵を後ろにゆっくりと斉に入ろうとした。

しかし管仲の矢は小白の腹に当たったように見えたが、実は腰帯の留金に当たっていたのだった。
小白はすでに斉に入り、君主になっていた。待ち構えていた小白に打ちのめされ、公子糾は魯へ逃げ込んだ。

斉の君主の位に就いた小白こと桓公は、魯に公子糾は処刑するように、管仲は引き渡すように命じた。
当初、桓公は管仲に命を狙われたことを怒り、管仲も殺そうとしていた。
しかし腹心の鮑叔に「天下の覇者になりたいと思われるならば、宰相は管仲でなければなりません」と言われ、管仲を魯から引き取り宰相とした。

桓公は家臣から何か諮問される度に「管夷吾(管仲)に聞け」とばかり答えるので、
家臣から「君主とは楽なものですね。全て管夷吾に任せておればいいのですから」と言われると、
桓公は「管夷吾を得るまでは苦労したのだ。管夷吾を得てからは楽をしても良いではないか」と答えたと言う。

宰相になった管仲は、改革を推進・断行し、国力・軍事力・文化面の向上に成功した。
すでに周王室は衰微しており、諸侯間の対立を抑えることもままならなかった。
管仲の改革を受け入れた斉の桓公は、周辺諸国にその名声が伝わり、周王朝に代わって、諸侯間の問題を桓公に審議してもらうようになった。

桓公は諸侯を率いて、周王室や諸侯を脅かし始めていた南方の楚を破ると、桓公は覇者となった。
この頃になると桓公は慢心し、「封禅の儀式」を行おうとした。
これは周王室を無視して、自分が「天子」であると宣言するようなものである。管仲は必死にこれを諌めて止めさせた。

自分の命を狙った管仲を最高権力の座につけ、その後も最期まで排斥せずに信任し続けたが、
国政の要であった管仲が亡くなると、国政を顧みなくなり、放蕩に明け暮れるようになった。
管仲が亡くなる時に引き立ててはいけないと言った佞臣たち(人肉を食べさせた料理長や宦官など)をも登用し、国政は乱れた。

桓公が病床に就くと、公子達の後継者争いの中で、その遺体は長い間放置された。
斉はこの後もたびたび後継者争いが起こり、覇権は晋、楚へ移った。






  鄭の子産   (2013/7/20)



【子産】

春秋時代、小国・鄭の名宰相。姓は「公孫」、名は「僑」、字は「子産」。鄭の穆公の孫。
鄭の地は北の「晋」、南の「楚」の二大強国に挟まれた戦略的重要地であるので、度々侵攻を受けて、軍事面でも経済面でも圧迫されていたが、
弱小国の鄭を安定させる善政を行い、すぐれた政治的手腕と博識をもって、晋と楚との両強国の間にはさまれながら、鄭を戦禍から免れしめた。

また税制や田制を改革し、貴族間の紛争を調停して、中国最初の成文法を作り、法治主義による統治を実現した。
孔子は直接には子産には会っていないが、孔子は子産を尊敬していた。孔子が最も尊敬した政治家と言う事で、斉の晏嬰などと並んで春秋時代の代表的政治家とされる。


宮城谷を読んでからの子産のイメージと言えば…

・生まれついての貴族
・庶民の味方
・苛烈な改革者
・礼儀の鬼
・定期的に家出して子皮に連れ戻される
・意外と兵法も得意
・ファザコン