★三國志ネタ★ ★特別武将&エディット★
  エディットネタというか、いにしえ武将ネタ   (2013/6/21)


↓エディットの関係は多分こんな感じ

趙奢と親愛関係 → 馬騰、馬超たち(エディットで馬援作ればさらに親愛関係に)

趙奢と親愛関係 → 馬謖(一応、彼も馬姓なんだがな…)

趙括と嫌悪関係 → 白起、廉頗、藺相如(さらに劉備もありそう)


↓ちなみに生き埋めにした人

 【白起】 ※いにしえ武将

戦国時代末期、秦の常勝将軍。武安君。「公孫起」とも表記される。
秦の昭襄王(始皇帝の曽祖父)に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。

一兵卒から名を上げた叩き上げの軍人。左庶長時代に頭角を現し、秦の宰相・魏冉に抜擢される。
韓、魏、楚を何度も打ち破り、常に数十万の敵兵を殺害して勝利。
その度に出世を重ね、楚攻略時には、秦の昭襄王から「武安君」に封じられた。

やがて秦と趙が対立すると、長平で趙兵40万を生き埋めにして圧勝。
しかし魏冉に代わって宰相となった范雎に進軍を止められ、これを機に自宅に籠もるようになる。
最期は秦の昭襄王の命に逆らい不興を買って、ついに昭襄王によって自害させられた。

自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか?なぜ自害せねばならぬか?」と。
しばらく考えて「長平の戦いにおいて降伏兵40万余りを一夜で生き埋めにした。天に対し罪を犯したのだ」と感嘆した。
「史記」の捕虜の生き埋めに関する記述は誇大なものであると長年とらえられてきたが、
古戦場における発掘調査でそれと思われる人骨が大量に出土し、多くの研究者を驚かせた。

のちの三国時代、魏の将軍・トウ艾が讒言をうけて殺される前に、
自らを白起になぞらえて身の危機を悟ったとの記述が「三国志」にある。


「三国志」にある割に、白起の親愛武将に「トウ艾」はいないのだな…
というか親愛・嫌悪関係が誰も居ないのも寂しい

ふと思ったが、いにしえ武将に「始皇帝」がいるなら、その曽祖父・昭襄王を作って、藺相如とガチ対決させるのもいいな…
もちろん白起とガチ対決させるのもいいけどwあ、それなら孟嘗君とも絡めるか…
つーか、いにしえ武将に秦国のキャラが結構いるのに、なぜ「商鞅」がいない!!!?(個人的贔屓)






  宮城谷「子産」   (2013/6/26)


ようやく「子産」を読み終わったー!!!!
早く寝ようと思ったのに、そろそろ終わりそうだからって読み進めてたらとんでもない時間に…まぁいいか…

前半は親世代がイチャイチャしてたが、後半の子世代・孫世代のイチャイチャがすごかったw
だが結局、子皮とラブラブですかゴチになります←
子産が出奔する度に子皮が追いかけてきてくれるが、
まるで痴話喧嘩して出て行った彼女を毎度迎えに来る男みたいな構図で楽しかったです
子産に何かある度に「俺の子産に手ぇ出すんじゃねぇ!!」って感じです

子産と鄭王も仲良くしてると年齢差がありすぎて…w
しかも子産が途中で趙武に詩でプロポーズしてるから何事かとw
まぁ子産は草を片手に家まで押しかけてプロポーズしてたりもするしな…

つーか「子産」は何故かオリジナルキャラが出てこないなーと思ったら、創作の名前を出さないようにしてたのか…






  法律の鬼   (2013/7/9)


なんか前回「いにしえ武将に始皇帝がいるのに商鞅がいないのか」みたいなことを言ってた気がするが、
ファンとしては悔しいので商鞅もエディットで作ってみました
やはり「商鞅あっての秦国」だと思うのよ!!
商鞅は「政治力100」でもいいと思います!(法律の鬼)

子産も改革者だが、やっぱり改革するには協力者が必要だな
子産には子皮がいたが、守ってくれる人がいないと、色んな人に恨まれるからな…(商鞅=恨まれた典型)



【商鞅/しょうおう】

戦国時代の秦国、政治家・将軍・法家・兵家。姓は「姫」、氏は「公孫」、名は「鞅」。
衛の公族系のために「衛鞅」、後に秦の商に封じられたため「商鞅」とも呼ばれる。
秦はそれまで野蛮国と見なされてきたが、商鞅は法家思想を基に国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いた。

商鞅は衛国の公族出身で、魏の恵王の宰相・公叔座の食客であった。
公叔座は死去する際に、恵王に後継の宰相として公孫鞅を推挙した。しかし恵王はこれを受け入れず、公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。
公孫鞅は魏を出て秦に入国し、秦の若き君主・孝公に面会し、覇者の道を説いた。孝公は熱心に聞き入り、公孫鞅は孝公の信任を受けた。

さっそく公孫鞅は国法を変えようとしたが、孝公は批判を恐れて躊躇した。
公孫鞅は孝公を励まし、旧制を変えるべきではないと反対した者は論破し、「変法」と呼ばれる国政改革を断行した。
最初は新法も上手くいかず、民衆からも不満の声が揚がったが、公孫鞅は法が上手くいかないのは、法がきちんと守られていないせいであると考えた。

その時、孝公の太子・駟(後の恵文王)が法を破ったので、これを処罰する事を孝公に願い出た。
さすがに孝公は自分の嗣子である太子・駟を直接罰することはできないので、
太子の傅(後見役)を「鼻削ぎの刑」に処し、また教育係を額への「黥刑」に処し、さらにもう一人の太子侍従を死刑に処した。
刑を受けた両人は恥じて外出しなくなり、公孫鞅を憎悪したという。この後は全ての人が法を守った。

法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになった。
はじめは不満を漏らしていた民衆たちも賞賛の声を揚げたが、公孫鞅はこれを「世を乱す輩」として容赦なく辺境の地へ流した。
これにより法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収める。

魏が斉に大敗すると、それを見ていた秦は蓄えられた力を使い、魏に侵攻した。
さらに公孫鞅は変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。二度の変法によって秦はますます強大になった。

斉の孫ピンによって魏のホウケンが敗死すると、秦は再び魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した。
魏の恵王は「あの時の公叔座の言葉に従わなかったためにこのような事になってしまった」と大いに悔やんだという。
この功績により公孫鞅は商・於という土地に封ぜられた。これより「商鞅」と呼ばれる。
しかし強引に変法を断行した事により、刑罰を受けた太子の傅を初めとして、商鞅を恨む人間を大量に作っていた。

その後、商鞅を重用した孝公が死去し、太子・駟が即位して恵文王となった(この時点では恵文君)
かねてより商鞅に恨みを持っていた恵文王の傅たちは、商鞅に謀反の罪を着せ殺害しようとした。
恵文王自身も、太子時代に自分を罰しようとした商鞅に怨恨を持っているために、
危険を察した商鞅は慌てて都から逃亡し、途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は相手が商鞅である事を知らずに、
「商鞅様の厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」と断った。
商鞅は長嘆息し、いったんは魏に逃げるが、商鞅を恨んでいた魏はこれを国内から追放した。

仕方なく商鞅は封地の商で兵を集めたが、秦の討伐軍に攻められて殺害された。
恵文王の厳命で、その遺骸は見せしめとして車裂の刑に処せられ、身体は引き裂かれて曝しものとなった。

だが秦の歴代君主は、商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した。
最終的に秦が戦国時代を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。