★エディット武将★
戦国〜秦末〜前漢初期・楚国 ※「三國志」のいにしえ武将+管理人の捏造設定エディット武将たち
いにしえ武将 【 呉起 】
戦国時代、楚の宰相。兵法家。著書の『呉子』は『孫子』と並ぶ兵法書として伝えられている
はじめ魯に仕えたが、主君に疎まれて出奔した。次に魏に仕え諸国と連戦して無敗を誇ったが、政争に敗れると、楚への亡命を余儀なくされた
その後、楚の悼王の知遇を受けて宰相に就任すると、大胆な改革を断行して楚の軍事力を飛躍的に向上させた(楚は平王の時代に伍子胥・孫武率いる呉の侵略を受けて衰退していた)
しかしこの政策が貴族の恨みを買うこととなり、悼王が老齢で死去すると、反呉起派は宮中に踏み込んだ
逃れられない事を悟ると呉起は悼王の遺体に覆いかぶさり、悼王の遺体もろとも射抜かれて絶命した
いにしえ武将 【 項羽(項籍) 】
中国史最強の武将。西楚の「覇王」。楚の名将・項燕の孫で、若い頃より武芸・兵法を修め、陳勝・呉広の乱が起こると叔父の項梁に従い挙兵した
秦討伐戦では各地の秦軍を破って名を馳せ、叔父の死後は楚軍の総帥となる
関中争奪では劉邦に遅れたが、実力で諸侯を黙らせると、秦を滅ぼして覇王となるが、その後は各地の反乱に悩まされる
後に劉邦との抗争が激化すると、戦えば必ず勝利したものの、次第に戦力を消耗していき、四面楚歌の中、垓下の戦いで漢軍に敗れ自害した
いにしえ武将 【 范増 】
項羽軍の軍師。秦討伐戦の中、齢70にして項梁(項羽の叔父)に仕え、項梁の死後も項羽を支え「亜父」と尊称される
早くから劉邦の危険性に気づき、秦滅亡時には「鴻門の会」で劉邦の暗殺を企むも失敗し、項羽の決断の甘さを嘆いた
やがて項羽と劉邦の争いが激化すると、劉邦軍の陳平による「離間の計」にかかり、項羽に疎まれる
項羽と決別して故郷に戻ろうとするが、失意のうちに没した。真実を知った項羽は范増を疑ったことをひどく後悔したという